司会/
今日は、最近出版されました「黒沢清の映画術」をもとに、そのエッセンスを語っていただこうと思っています。ミュージシャンがレコードやCDの沢山ある楽曲の中から選んでライブするような感じでできたらいいと思います。
それでは目次の一番初めにある「神戸の映画狂時代」から、お話し願いたいのですが、すでにベルトリッチの「暗殺の森」を傑作!と感じたりされています。時代的にも、背伸びして、ちょっと難解風な作品に挑んでみたりするのが、かっこよかったりした時代ですね。
黒沢清監督(以下、黒沢)/
60年代後半から、世界的に流行していたアメリカンニューシネマの形式が、廃れつつある頃で、「真夜中のカウボーイ」を頂点とする「イージー・ライダー」「明日に向かって撃て!」「卒業」とか、ジャック・ニコルソン、ロバート・レッドフォード、ダスティン・ホフマンなんかが活躍していたわけですが、70年代前半になってアメリカンニューシネマの人気がなくなってきたころに、積極的に映画を見始めました。
アクション映画が好きで、ニューシネマよりもう少し古い時代に活躍した、「ダーティハリー」のドン・シーゲルとか、サム・ペキンパー、ロバート・アルドリッチ、リチャード・フライシャー、ニューシネマの頃あまり流行らなかった安手のアクションものが好きでした。本には書いてませんが、高校生の後半で、初めて興味を持った日本映画は、深作欣二の「仁義なき戦い」でしたね。前半は、深作、藤田敏八、神代辰巳などを、最新の日本映画としてチェックできていました。
司会/
立教大学に入られて、蓮實重彦さんと出会われるわけですが、(蓮實さんが)一般教養で映画を教えられていたというのも驚きですが、いかがだったのでしょう。
黒沢/
立教は、映画専門の学科はなく、学生が好きそうな映画、演劇など一般教養で、ごく自然に、映画論があったというのではなく、映画鑑賞の授業だったんです。蓮實さんは当時から強烈な価値観があり、若者が漠然と信じてしまうようなことを強烈に覆して、映画だけでなく、人間として影響を受けました。
黒澤明をけなした、初めての人でしょう(あの時はけなしすぎたと後で言っていましたが)。当時黒澤明はまだ生きていて、偉大な人でしたから、公然と悪く言うのにはびっくりしました。
1年生の1回目の授業で、まずこの映画を見よと言ったのが、ドン・シーゲルの「ドラブル」で、観に行こうと前売券を買っていましたし、「ダーティハリー」でファンだったので、この瞬間から、この人はいけてると一発でほれ込んでしまいました。
司会/
後に、蓮實さんが支持されていくゴダールやルノワールを(その時に)言われたら、違っていたかもしれない、とも語っていらっしゃいますね。
黒沢/
当時のゴダールやルノワールを支持していた多くの人たちのは、映画芸術、古典に関しての授業なのかと思っていた。当時蓮實さんは、まだほとんど知られていなかったのですが、70年代のアメリカ映画が下火の時、スピルバーグの「ジョーズ」が出る前で、その時代に、そんなことはない、こんなにアメリカは注目なのだ、ロバート・アルドリッチの「ロンゲスト・ヤード」を観よというのは凄い。
司会/
黒沢さんも、今は大学で教えてらっしゃいますが、学生にとっては、ぴたっとくる出会いがあるというのは素晴しいことです。
黒沢/
70年代後半のアメリカ映画を通じて、蓮實さんと出会ったのは大きいです。
今、学生と話していると、世代ごとに好きなものも多様化していて、僕らほど、はっきりしていないと思います。僕は、それにしても恵まれていました。世界の歴史に輝くような監督の作品を、封切で見れていたことです。
僕らより10歳くらい若くなると、「若い頃、どのような映画を見て、出会ったの?」と聞くと、恥ずかしそうに「スター・ウォーズかな?」と。もっと下の30代になると「ドラえもん」と恥ずかしそうに言う。ドラえもんで映画にのめり込んで、「スター・ウォーズ」で映画にのめり込んで、僕はドン・シーゲルでした。
司会/
さて、その立教大学で、パロディアス・ユニティという制作グループを作られて、活動されるわけですが、クリント・イーストウッド、ベルトリッチ、大島渚にはなれないのかな、とおっしゃっています。
黒沢/
今でも続いていることですが、映画を観るのが好きでも、実際にカメラで撮ってみると、ほとんど思うようにはなっていません。当時8ミリフィルムで撮っていて、完璧にこれでいけた、と思っても、いけてないことがある。それは今でもそうで、かつて見た、完璧な天才監督の作品には、とても及びません。才能ということも、時代ということもあるのでしょう。こういうアプローチをしてみよう、そう思ってもできない。だから映画を作り続けているのだと思います。
司会/
では、80年代に入ってディレクターズカンパニー(ディレカン)のことですが、当時私たちがさっぽろ映画祭をやっていて、この時にもディレカン特集をして来て頂いたかと思います(ディレカンは、監督の協同組合のようなもので、長谷川和彦を中心に結成されていた)。そのディレカンは議論が好きで、世代もあるけど、黒沢さんは冷静に見てられたのが興味深いです。
黒沢/
物事が決まりませんでしたねー(笑)。
世代もあるけど、血液型もあるなと。揉めると主張するのが、長谷川、井筒和幸、高橋伴明、石井聰亙、彼らはA型ですね。黒沢や根岸吉太郎のO型は、場を和ませようとする。その間マンガを読んでいて、一気に引っかきまわして、またマンガを読んでいるのがAB型の大森一樹と池田敏春。窓からずっと空を見ているのが相米慎二のB型(笑)。結局何ひとつ決まらず、今日はおしまいにして飲みに行こう〜と(笑)。
司会/
スタジオシステムの映画会社の中で、自分の個性を出していくには、ケンカ腰でないとできなかった時代ですね。崔洋一監督も、自分が目立つことによって映画を撮れるように状況を変えていった、そういった監督たちの頑張りがあったから、今があるのだと思います。
さて、この中で、「神田川淫乱戦争」というピンク?映画になっていくのですが、今日の時間枠では無理なので、先を進めまして、伊丹十三さんのプロデュースで映画を撮ることになるのですが、誰だって、微妙な趣味の違いはあると思いつつ、「正しい映画」と言うことを語られていて、映画のここにこんなカットを入れるのか、説明的なアップを入れてしまうのか、といったことへの、生理的な嫌悪をかなりはっきり述べられています。
黒沢/
伊丹さんとはいろいろあったのですが、ずっと自主映画から始まって、いつのころからか、監督の役目って、ある1カットを撮ることだなと思うようになりました。その1カットが自分の個性であり、撮影現場に存在していることなんだ、その1カットのために、俳優やカメラマンや、あらゆるスタッフが動いているのだと。テレビでは、監督がいないというか必要ないのです。スイッチャーといいますか、演出家は、スタジオで何台かのカメラを回したものを、スイッチングで切り換え、秒数がはまるかどうかを、むしろ見ている。映画の場合、監督の最大の意味は、ここからここまで1カットで撮ります、って宣言することなのです。ひとつのつながりのカットは、監督の証なのです。それが個性です。
伊丹さんは、これだとわかりにくいので、間にちょっとアップを入れましょうと意見される場合がありました。編集で1カットが分断されることもある。ひとつの大きな決断(軽々しく言うものではないという意味でですが)をする、監督の意見と真っ向から反対する。テレビのように何台ものカメラで撮って編集していく(ハリウッドも同じでしょうが)方法なら、監督への1カットの尊重は全くないので、僕がいる意味がないわけです。
司会/
「1カット」は、この映画術の本のキーポイントで、ページでいうと143ページから147ページにかけて、「黒沢清の映画術」の白眉となる1カットに対しての考え方が述べられているわけです。そして、リュミエールの映画誕生期にも触れ、映画とはどういうメディアなのかを語ってらっしゃいます。
黒沢/
誤解してほしくないのですが、1カットとは長さではありません。1秒のカットから3分のカットもある。たった1秒のカットでも凄いのを撮る人はいる。ハリウッドの監督でも、才能のある人は勿論います。例えば、爆発している手前を俳優が走ってくるのを1カットで撮ったりします。
全体の長さはある程度、自分の中でも決まっていて、カットを編集していきます。構成していくカットは1秒でも3分のものでも、撮影現場でも1秒であり、3分だったのです。それをカメラが記録したわけです。これが映画の基本だと思います。過去に経過した、絶対的な時間がここにある。大袈裟かもしれませんが、歴史になるのです。それは1秒であっても、3分であっても、ドキュメンタリーであっても、フィクションであっても、です。フィクションであっても同じ、撮影現場で実際に記録した時間が今ここに提示される、その積み重ねが劇映画になる。いつ、何時何分に撮られたもの、その歴史が刻まれる。アニメーションと決定的に違うのは、ここにあります。(司会注:劇映画でもCGを使いすぎていくと計り知れなくアニメーションに近くなってしまう)
司会/
非常に興味深いお話で、少し予定時間がオーバーしても、お話をもう少しお聞きしたいと思うのですが、いかがでしょうか。(客席より頷いている方が何人か見受けられたので)それでは少し延長させていただくことにしまして、現在の黒沢さんの原点とも言える91年の「地獄の警備員」になるのですが、ここでなぜ暴力になるのか、なぜ幽霊なのかといったことに答えられていまして、大変興味深いのですが。
黒沢/
普段は生きていて暴力ほど嫌なものはないですし、現実の暴力は苦手です。映画の中では、いろんな形の暴力があり、人間が動くのが見える表現形式です。2人の、極端でわかりやすい関係が暴力を振るうことで、わかりやすいドラマとなる。台詞以上に、一発殴るほうが、音もして、倒れて、ガシャーンとコップが割れる、という映画の基本があります。暴力をどのように撮っているかで、監督の才能がわかります。究極の人間関係として描けるわけです。
幽霊ですか、こっちはやっかいです。見たことがない(笑)。映画でどう扱うか、という以前に、僕の人生にとって幽霊ってなんだ、と思うわけです。昨今のホラーブームになる前から、幽霊が出てくる映画は好きで、「スウィートホーム」も撮ったし、幽霊は人間か?と考えると、Jホラーは俳優が演じているもので、合成で作ったものではないので、演じ方も指導しなくちゃいけなくて、大変です(笑)。人間が演じる、生きていない人間、死んでいるか、もと人間だった。エイリアンとは全く違います。(人類の歴史でいくと)ほとんどの人間は死んでいるので、ほとんどの人間は幽霊です。やっかいで哲学的領域になってきましたが、人間は死んだらどうなるのか、何もなくなるっていう人がいるけど、それも一つの考え方で、生きる人間とちょっと違う何かになるとも考えられます。それが幽霊だったら、人間の本質ということになります。死んだら、人間の本質の幽霊になるのだろうと。映画を撮ると、普段からぶつぶつ考えるようになる。生きているって、どーいうこと。死んでいるって、どーいうこと。映画を作ることは、人間の関係、生と死を真面目に考えることでもあって、みんな真面目に作っているのです。B級映画であっても、作る側は、かなり大真面目で作っています。ですから、映画を作ることは僕にとって有意義なことなのです。
司会/
「アカルイミライ」の時だと思いますが、海外映画祭などに行って、日本映画で“淡々とした”との評価が、嫌だとおっしゃってます。
黒沢/
淡々としていることそのものは悪くないけど、映画にとって“淡々とした”というのは、あまり褒め言葉に思えません。とりわけ一時期、特にハリウッドが暴力的に激しく見せ場を作る、派手な見せ場を作ることに世界中があくせくしていて、淡々とした日本映画が新鮮に見えたわけです。そのことは、あまり嬉しくありません。映画は本来、動いてほしいし、とかく淡々としていると言われる小津安二郎なんかは、どこが淡々としているのか、こんなに激しい映画はないですよ。小津ほど、細かくカット割りされた映画はない。穏やかに流れているように思いがちですが、よく見ると大胆で激しい。結婚する場面で、結婚式なんかわずか数カットで終わって、もう次の場面になっている。凄い速度で変わっています。中には本当に淡々としている映画もあり、何かと一緒に、日本映画はその代表にされてしまうのですが、それだけは避けたいです。
1本の映画の中で、淡々と進み、次に急に物事が動くようなハッとする時間があり、そして淡々とリズムがある。そうやって、淡々から、回避して、映画でありたい、と思っています。
司会/
さて、延長してもさすがに時間がなくなってきましたので、これから見ていただく「LOFT」のことも少し語っていただければと思いますが、内容に触れず、技術論で行きたいと思います。本の中で、「複数の視点」という、ホームビデオ、デジタルビデオを使って、もう一つの視点で撮っておくことをやっていらっしゃるとのことですが。
黒沢/
「LOFT」は淡々としていない自信はあります(笑)。「アカルイミライ」は東京で暮らす、若者たちの物語だったので、カメラ2台を常に使っていて、フィルムだとお金がかかりますが、ビデオで撮ってフィルムにしました。その感覚が良くて、「LOFT」ではカメラ2台(ビデオカメラです)を使って、撮影後、フィルムにしています。カメラを2台使用するときは、普通なら、メインとサブにして、サブのカメラはメインで撮れなかったところを補足する、という発想ですね。いわゆるAとBの関係ですが、僕はそうせずにですね、A(のカメラ)があったら、もう一台もAで、しいていえばAユです。補足するためのBカメラを想定しません。あくまでも、一つのカメラで撮る位置関係、Aとほとんど同じ位置の、ちょっとズレたところにAユのカメラがある。似たような位置から、似たように撮る。それを編集するのですが、持続する時間の中で、ちょっと視点が変わったことに気づく。何かヘンな、途中で視点がいきなり変わるのです。1カットはひとつの時間を流れていて、歴史が成立しています。2つのカメラ、AとAユを使って視点がずれることによって、2つの時間が生まれているので。奇妙で、ざらっとした、怪しいものが生まれます。
映画の本質はどこにあるのか。映画の絶対性を突き崩してみたくなりました。ビデオを導入することによって初めて試みることができました。
司会/
ありがとうございました。わずかな時間でしたが、映画狂少年時代からのお話をお聞きすることによって、黒沢さんが、単なる映画原理主義でなく、まさに映画の本質を突き詰める工夫として映画が成立していること、そこに映画の風通しの良さも感じられたのではないかと思います。
「LOFT」について
〜翌日のキャンペーン中に伺ったお話です〜
<LOFTのこと>
●ホラーは、Jホラーで日常的な身近なもの(例えば、ビデオとか携帯とか)が変貌する、そういった日常に根ざしたホラーじゃなく、森、沼、屋敷といった、今回のような本来のオーソドックスな寓話めいた話にしたかった。
●今回のカメラは女性で、美術も女性、主演は中谷さんで、女性の視点がいろいろ出てよかった。また、カメラのサブ(A'のカメラ)も女性だけど、メインのAカメラの芦澤明子さんが、Aユのカメラが気になるらしく、一度だけA'のカメラをやっている。豊川さんと安達さんのシーンで、カメラが横になっているけど、あれは唯一A'にした芦澤さんの画で、こんな効果として表現された。
●生身の人間を使っていると、それぞれの役者の個人が持っている複雑なものも引き出したい。それがフツーの人の恐さにつながる。
●ミイラに関しては、女性が主人公であること、中国の奥地で発見されたミイラのモデルがあり、それに触発されて、ふくらませていった。
<役者に関して> ●中谷美紀さんに関して
女性を主人公にしたのは、一個の単純なキャラクターではなく、主人公の中に消極的な面も、積極的な面も、強い面も、弱い面も、矛盾した面も、様々に持っていることを様々な側面から描こうとした。中谷さんは、日本では珍しい成熟した大人の女性で、予想以上に素晴しかった。複雑な、一言では言えない、揺れ動くキャラクターを、とてもうまく演じてくれた。中谷さん自身も、「今までとは違って落ち着いた。チャンスがあれば是非もう一度組みたい」と。
●豊川悦司さん
いまだに、あまり日常を感じさせない役者、映画の中だけのような住人で、ファンタスティックな森の中の一人として演じてもらった。
●安達祐実さん
よく、こんな役を演じてくれた。幻想の象徴のような役で、生きているのか、死んでいるのかよくわからない。豊川さんを押さえ込むシーンでは、身長差が30cmもあるので、できるかなと思ったら、いとも簡単にやってのける。本当に土の中にも埋まってもらったし、まさにプロの女優でした。
●西島秀俊さん
狙いとしては、価値観が平板になってしまった男の殺伐とした感じだったが、とてもうまく演じてくれた。
全体的に、役者に求めるのは、脚本に書かれている役だけではなく、自分自身の生身もちゃんと出してくれる役者が好きです。
<映画作りに関して>
●映画とは何かを突き止めたい。そのために、様々に試みている。映画を、映画と映画じゃないものの境界線においていく。境界を広げるためにも。なので、二度と同じものを作らないようにしている。
●デジタルも、積極的に活用しているが、撮影中にモニターは基本的にのぞかない。現場で気になっているところを見逃したくない。それは俳優のことが多いけど、それ以外の小さな気になっていることも含めて、集中するため。モニターは確認する時にしか使わない。
●現代の小説はとても映画的な気がする。映画が誕生する前と誕生してからでは、映画による思考が加わって、小説が変化していると思う。映画が誕生してからは、映画のように、物事をとらえていくことが当たり前になった。映画という記憶が、私達の脳の中に常にあり、言葉を超えた世界共通の言語として存在している。
「映画術」記録 中島ひろみ
採録まとめ 中島
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