TOP > 全国映画よもやま話 > vol.006


朝日新聞 2005年6月25日朝刊より


小栗康平さんからあなたへ

私が子どものころは、映画もテレビもまだめずらしく、田舎者の自分がおいそれと近づけるようなものではないと感じていました。大きくなってぼんやりと映画をやってみたいと思うようになっても、私には臆した気持ちがいつまでも続いて、友達と快活に映像を語るなどということも出来ませんでした。

でも今になって考えてみると、そうやって過ごした、ためらいがちな時間が自分なりの映像の見方、映画の考え方を作ってくれたように思うのです。

あなたはどうでしょう。映像はもうすっかりありふれたものになったのだから、ことさら自分の感じ方など用意しなくてもいい、そう考えていますか。私はまだ映像がよく分かりません。一つの映画を作り終えると、次の不思議がわいてきます。いつでも心しなければ、そう思っています。

映像はなによりもまず、見えるものですね。見えているということはそのまま、分かるということになるでしょうか。私たちはいろいろなものを見て暮らしています。じつに多くを見ているように思いますが、その大半は見えているだけです。大事なことはそんなにはありませんし、集中しないこと、忘れることも私たちが生きていくための能力です。でなければ頭がパンクしてしまいます。

でも映像は「作られたもの」「選択されたもの」です。見えているだけのものではありません。日常で見えているだけのものとはいっしょにはならないのです。

この区分けが、最近つかなくなってきましたね。私が子どもたちに、教科として映像を学んでほしいと思うのは、そうしたことの危機感からです。親がどぎまぎしながら映像に触れているうちは、まだよかったのです。親が映像に慣れて、狎れてということばを使いたいくらいですが、誰が子どもたちに映像の仕組みを、その不思議を教えるのですか。

映像はもともとバーチャルなものです。バーチャルなものだからこそ、それが私たちの五感とどう結びついて、映像という「ことば」になったのか、それを伝えましょう。感覚的であることは、論理的であることと相いれないと思われるかもしれませんが、映像はそこにこそ架け橋を架けるもの、私はそう思いたいのです。


小栗康平 おぐり・こうへい
映画監督。
45年群馬生まれ。81年「泥の河」、90年「死の棘」でカンヌ映画祭グランプリ。
5作目「埋もれ木」が8月シアターキノにて公開。著書に「映画を見る眼」ほか。