2003年10月17日 北海道新聞学芸欄
九月上旬、「映画上映ネットワーク会議2003イン大阪」が開催された。全国の自治体等の映画祭関係者や独立系の映画配給会社、ミニシアターの支配人など、さまざまなかたちで映画上映にかかわる人々が一堂に会するこの会議は、今年で八回目を数える。
一九八九年に大分市で座席数七十四のミニシアター「シネマ5」の経営を始めて十五年になる私は、年に一度のこの会議への参加を楽しみにしている。そこは、わが同志とも言ってよい全国各地のミニシアターの運営者たちとの再会の場であり、彼らと議論を重ね自分自身を振り返る場でもある。とりわけ会議の後の懇親会において、私たちの議論は一段と熱を帯ぴる。話題はもっぱらシネコン時代の映画状況に及び、さながら愚痴のこぼし合いになってゆくこともしぱしぱだ。
九六年に始まったこの会議の一回目は福岡で開かれた。福岡は、当時では常識を超えた十三スクリーンの巨大シネコン「AMCキャナルシティ」が中心部に誕生したぱかりのシネコン先進地と呼ぱれた場所だ。その後、全国各地にシネコンが誕生し既存館が続々と閉館に追い込まれる中、この会議は、まさしくシネコンによってもたらされた新たな映画環境の下で、映画文化を守り育てるにはどうすればよいかをテーマとしてきた。
九三年に日本初のシネコン「ワーナー・マイカル海老名」(神奈川県海老名市)秘誕生して十年。日本映画製作者連盟の調べによると、昨隼末ついに全国のスクリーン数においてシネコンの占める割合が50%を超えた。今年に入って札幌には邦画三社連合のシネコンが誕生するなど、今や完成の域に達しつつあるシネコンが、この十年の間に作り出してきた映画環境とはいったい何だったのだろう。
九三年、日本のスクリーン数は千七百三十四だった。この年、最もヒットしたハリウッド映画「ジュラシック・パーク」の公開スクリーン数は約二百。当時ではこれは驚くべき多さであった。そして、シネコン開業が進み、全国のスクリーン数が約九百増え二千六百三十五に達した二〇〇二年末、ハリウッド映画はどんな規模で公開されただろう。「ハリー・ポッターと秘密の部屋」八百五十八スクリーン、「マイノリティ・リポート」約四百五十、「ギャンク・オブ・ニューヨーク」約四百である。すなわち、この十年間のハリウッド映画上映スクリーン数の増加ぶりは、スクリーン全体の増加ぺースを上回り、突出している。
七〇―八○年代には、ほぼ半々だった邦画と洋画の興行収入の割合は、九〇年代以降は四対六、二〇〇二年には三対七にまでなる。しかも洋画とはおおむねハリウッド大作のことを意味している。
映画が産業である以上、確かに競争原理からまぬかれることはできない。シネコンの明確なポリシーは、「東宝映画は○○東宝劇場で」といった日本のいわゆるブロック・ブッキングシステムを壊し、自由に映画を選択することで、映画輿行に徹底した競争原理を持ち込むことであった。それが結果としてハリウッド映画に勝利をもたらしたのが、この十年だと言える。
さらに競争原理は、観客へのサービスにも持ち込まれた。レディースデーやレイトショーなどの割引サービスが拡充され、郊外型シネコンでは無料駐車場も設備されるようになった。こ、うして映画館の「敷屠を低くする」ことで、シネコンは観客の支持を得、産業としての映画は確かに活気づいたと言えなくない。
しかし一方で、観客動員は一部の大宣伝される映画に偏り、その嗜好も、気楽に受け身で楽しめる娯楽映画へと傾斜しつつあるのも事実だ。サービスの拡充は観客の「自分が楽しむ」意識を増大さ逆、「他人と同じ映画を共有している」という感覚が薄くなった人々のマナーは必然的に低下する。じっくりと余韻をかみしめたい映画においてさえ、エンドロールがあがり始めるや大半の観客がわれ先に席を立ち、残った観客が暗闇で携帯電話の確認を急いでいるという光景は、今や珍しくない。
同じ映画が複数のスクリーンでかかれぱそれを話題作だと思いこみ、一館でひっそりとかかる知らない映画は切って捨てる。それもこれも、映画館が「質より量」で生み出してきた観客によるものだ。産業としての映画の隆盛が、文化としての映画の衰退をもたらしているのが、興行の現実である。
そんな中、「いい映画を一本でも多く届けること」や「知られぬ映画の良さを伝えること」など、私たちが考える映画館本来のサービスが無価値になりつつあることが、冒頭の私たちの愚痴につながっている。それは、商売よりも映画が好きであるがゆえのジレンマだと言い換えてもよい。
いったい映画館の仕事とは河なのか。当たる映画を選択し、観客を割引などで誘導し、彼らにポップコーンやパンフレットを買ってもらうことなのか。いま一度、映画館というものの原点に立ち返り、観客との間に、互いに「育て」「育てられる」関係を築いてゆかねぱならないと私は思う。私たち自身、かつて映画館に育てられて、この現在に至っているのだから。
田井 肇(たい・はじめ)
「シネマ5」代表。1956年岐阜市生まれ。大分に移り住み、76年から始まった湯布院映画祭の立ち上げに加わる。以後13回目まで中心メンバーを務めた後、89年、閉館の瀬戸際にあった「シネマ5」の運営を引き継ぎ、地方都市では困難とされるアート系専門映画館として、その経営を軌道に乗せて現在にいたる。田井さんは、シアターキノ市民株主の一人でもあります。
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