シアターキノTOP > キノを訪れた人々 > キム・ギドク監督
シアターキノには訪れていませんが、せっかくなのでこのコーナーにいれました。「サマリア」の内容に触れている部分があります。先に知りたくない方は映画をご覧になった後でお読み下さい。

上映前のご挨拶(ゆうばり国際ファンタスティック映画祭)
夕張に来れて嬉しいです。「弓」という作品を撮り終わり、編集中です。ちょっとぬけだしてきました。 今忙しい状況で、もしかしたら行けないかもしれないと思いましたが、来れてよかった。夕張の雪は美しいです。

「サマリア」は、私が撮った10本目の映画です。(私の)昔の作品に対して、残忍で恐ろしいとよく言われました。しかし、「春夏秋冬そして春」ではソフトになったと言われました。「サマリア」は、ソフトに見えますが、内面は残酷で怖いです。でも、途中で驚いて投げ出したりせず、最後まで見て下さい。怖いと思って目を背けると、映画をなかなか理解できなくなります。

ぜひ、楽しんでください。見る前に一言、皆さんにぜひ考えて欲しいのは、この映画に出てくる人すべてを、悪い人と思わないで下さい、ということです。

上映後のティーチイン(ゆうばり国際ファンタスティック映画祭)
質問、監督のお答えともに要約
(赤字=キム・ギドク監督・黒字=観客)
すばらしかったです。いつになく心優しい映画だと思いました。最後に再生させる親子関係は、今までと違う。いつも監督の作品で思うのですが、水の上に家や寺院や車があったり、ありえないことがある。湖に寺、今日も、水に車が浮かんでいました。この様なイメージは、いつごろから浮かんだのですか。
兵役で軍隊についたとき、海兵隊にいました。4年間海ばかり眺めて暮らしていました。そのとき思ったのです、水には色々な表情のあることを。様々な表情を見ていると、人間の生きる姿と似ている、と思いました。水を通して人生を描きたいと思ったのです。
シナリオは、どのように作っているのですか?監督一人で?それとも何人かで?また、原作を使ったりしますか。
最近の「弓」で12本撮りましたが、すべてオリジナル・創作シナリオです。原作はありません。私のシナリオは、一人で書きます。私と他の人の考え方が違うことがわかったからです。それで、一人で書くことにしています。「サマリア」では、最後に現実世界で父が娘を殺すシーンで終わる予定でしたが、撮っていくうちに、それを夢にして、娘に車の運転を教えて終わりにしようと変わっていきました。
父と娘の感情、関係についてですが、父と娘なら心優しくみえますが、恋愛感情なら怖いと思いました。
父が娘を、女性として見るシーンを意図的に入れました。父にとって娘は、幼い娘であり、しかし外に出れば、ひとりの女性としてみられるわけです。だから、援助交際もあるのです。ですから、父は(娘を)娘としても女性としても見ることがある、ということです。そして、(父は)妻を早くに亡くしているので、(娘は)女性としても存在しているのです。しかし、そこまでで留めておくことが勿論必要です。
残酷な描写と独特な美学を監督の作品から感じます。どんな意図が込められていますか。
他人から見ると残酷だと見えるシーンを撮るとき、私はこのシーンがいちばん美しいと思って撮っているのです。
音楽に対してですが、非常に効果的に使われていますが、音楽については、どのように考えていらっしゃいますか。
私は、必ず映画を撮ってしまってから、音楽監督に候補を10本くらい挙げてもらって、その中から選んでいきます。できるだけ私が知っているようなものも、音楽監督に語り、その例を話しながら決めていきます。
援助交際がテーマで、日本でもこれを題材にしたのがありますが、ちょっと違うような感じがしました。すごくいろんな意味が込められているように思いました。日本だと買う男は醜く悪いことですが、この作品では、男が一時でも幸せと言ったり、幸福な時間を過ごしたようなところがあり、女性から見るとこういったことは驚きで、監督は援助交際をどう捉えているのでしょうか。
見ていただく前に、私はこの映画の登場人物に悪い人はいないといいましたが、まさに、今同じことを言います。勿論韓国でも買う男が加害者で、買われるのが被害者という、社会的にはそのような関係ですが、私は映画監督なので、違った観点から見ようと思いました。

なぜかというと、観る人によって観点が違うと思うからです。私も援助交際は犯罪だと思っていますが、もしかして1/100くらいは人間的な面があるかもしれないと思い、あるとしたら、そこを覗いてみたいと思いました。つまり、100人の犯罪者がいるとすれば、1人くらいは、この映画のような人がいるのではないかと。

しかしながら、この映画は援助交際を題材にしていますが、その話の映画ではありません。誰が誰をどのように見ているか、どう見ているかという映画なのです。友達が別の友達を見る視点、社会が少女を見る視点、父が少女を見る視点、娘が父を見る視点、様々な視点があります。この作品は3つから成り立っています。1.バスミルダ、2.サマリア、3.ソナタ。それぞれ友達が友達を見る視点、自分が自分自身を見る視点、父が娘を見る視点、として作っています。

私は社会において、それぞれの視点が違うため、誤解も生まれると思っています。一つの視点で言うと、犯罪者として見る視点でも、加害者も被害者であるかもしれません。ラストシーンで、娘に運転を教えます。下手な、未熟な運転のまま、少女は生きていかねばなりません。少女はまだ十数年しか生きていないのです。これからの生きる人生をうまく運転していくために、ラストシーンを作りました。車輪が溝に入ってしまって、抜け出せませんが、そういった状況から少女は一人で、立派に生きていってくれると、私は確信しています。

北海道新聞インタビュー要約

「春夏秋冬そして春」は、私にとって悟りを与えてくれた映画で、作品を制作中に、自分自身が変化していくことを感じていました。「サマリア」は、そのような映画的経験があったからこそできたものです。しかし、悟りが持続されるものとは思っていません。悩みは反復されるでしょうし、暴力的なものを撮る事もあるでしょう。「春夏秋冬そして春」以上に、深い映画を撮ることもあると思います。
私の作品は3つのタイプに分けることができます。
1 クローズ・アップの映画
素材にしている人そのものを仔細に観察しているもので、そうすることによって、その中にある暴力性など、否定されることも表出してきます。
例:「魚と寝る女」「悪い男」

2 フルショットの映画
少し離れて、フルで人間を捉えようとしたもの。
例:「受取人不明」

3 ロングショットの映画
人間そのものを風景の一部として捉えようとしたもの。
例:「春夏秋冬そして春」

さらには、宇宙からの観点で捉え、人間そのものが見えないような映画も撮るかもしれません。
「サマリア」は2といえますが、1〜3のトータルにつなぐものとして、考えることもできます。
父親と少女の関係についてですが、家族の中の父親は物事を解決させないといけないという、父親の宿命をもっています。父と娘の関係もあるが、個人と他人の関係もあります。家族の中の父、社会の中の父を見極めるのが重要です。
贖罪に走るヨジンの造型に対しては、聖女として考えることもできるが、むしろ、チェヨンを理解していく過程として考えてほしい。彼女と同じことをやることによって、少しずつ理解していく。セックスは恐ろしいことや堕落ではなく、人間と人間のコミュニケーションであることを、彼女の行動でもって表現したかったのです。
ラストシーンの川は、川というより大きな意味で「水」として捉えています。周りに人工的なものがあり、それに対する水という意味もあり、客観的にみるためにも、取り入れています。それは、鏡を通して、確認する装置としての水なのだと考えています。私自身を見つめ直すものでもあります。
韓国の映画作家の大半は、映画を勉強して、理解してきました。しかし、私はそれらの勉強は全くしていません。人間はいろんな「恨」を抱えて生きています。その「恨」の過程そのものが、私には映画の力となります。私の映画の技術は確かに洗練されていません。しかし、映画は技術でなく、人間を描くものだと私は思っているのです。私は人間の感情をこそ、描きたいのです。